後醍醐と不和になっていた邦良は、正中の変以後、後醍醐を早期に譲位させるようたびたび幕府に请愿していたが、正中4年(1326年)に死去してしまう。持明院统の嫡子量仁のほか、後二条が死去した际に立太子の机会を逸した恒明、邦良の同母弟邦省、後醍醐の第1皇子尊良亲王らが次の皇太子の座を争い、最终的には幕府の裁定で量仁が皇太子に指名された。邦良も幼い男子を遗しており、彼らも将来は後醍醐の强力なライバルとなり得る立场にあって、後醍醐の「一代主」としての立场は幕府の権威のもとでますます明确となり、後醍醐の倒幕志向もますます强まることになった。
それで、第2次の武力倒幕计画も元徳3年(1331年)にやはり密告により事前に発覚した。今回は幕府の対応は素早くまた强硬だった。後醍醐は予定を早めて武装蜂起(元弘の乱)に踏み切ったが、幕府は関系者の逮捕に着手するとともに、大军を动员して镇圧に乗り出し、後醍醐も逮捕されることを避けて京都を脱出し自ら叛乱军に加わった。京都を制圧した幕府は、本人不在のまますぐに後醍醐を廃位し、皇太子量仁(光厳天皇)を践祚させた。この年8月、京都脱出の直前に後醍醐は元弘と改元しているが、幕府はこの改元も认めず、もとの元徳の元号をそのまま使用させた。まもなく後醍醐は捕虏となり、承久の乱の先例に従って谋反人として隠岐に配流された。计画に参画した皇子たちや贵族たちも死刑を含む厳罚に処された。
PS:嘛,这次是真的拿论文来凑数了,至于改嘛……等我慢慢改吧,现在脑子里都是新书,实在是没有心思再继续写这个。明明三期都还没出场,残念,太残念了。不过也没办法,大约就这样了吧。可能会写一些残破的三期的小剧场。(丧失思考能力的我x)